薔薇の名前

メルクのアドソ「私はアドソ。断じてアドンではない。
フランチェスコ修道会の老僧侶だ。
いや、ベネディクト会だっかた?まあ、細かいことはどうでもいい。今から私が話すのは、私がまだほんの修練士だったころの話。
そのころ私はメルクの修道院にいたのだが『広い世界を見るのだッ!!』と父上に言われ、旅に出ることになった。
その際に、私の親代りを務めてくれたのが、フランチェスコ会の托鉢修道士、バスカヴィルのウィリアムという方だ。
折から、皇帝とアヴィニョンにいる教皇は折り合いが悪く、フランチェスコ会教皇に異端呼ばわりされるので皇帝に付き、なんとかして教皇を説得したい、いや、世俗の権力を勝ち取りたいと…
早い話が、敵の敵は味方というやつだ
そして、教皇と皇帝の間を取り持つ勅使の任を仰せつかったのが、他ならぬわが師、ウィリアムだったのだ。
本当はもっと細かいのだが、こんな話で我が賢明なる読者を退屈させるわけにもいかない。
何より、いちいち語らねばならぬ私が面倒である
かくして我々は北イタリアの山岳にある修道院に赴いたわけだが、そこでは折から、世にも恐ろしことが起こりつつあった。
聞くところによると、少し前に、アデルモという名の若い細密画家の修道僧が唐から墜落死したそうなのである。
そのことが修道院外に漏れては事を荒立てるというので、院長のアッボーネっから事件の解決を依頼されたのだ。
しかし、事はこのあと、知と邪悪と恋に彩られながら、我々の思いもよらぬ方向へと進んでいくのであった…」

と、言うことで、記号論で高名なウンベルト・エーコの処女小説の映画化。
簡単にいえば、修道院内で起こる殺人事件を修道士の師弟コンビが解いていく、という至極簡単なもの。
まるで中世をそのまま持ってきたような美術や重苦しいまでの修道院内の雰囲気、そしてフリークスのような修道僧たちはどこまでも不気味。
ストーリーも、難解といわれるが、いくつかの改編を含めてタイトに纏められているのですんなり入り込める。
というか、原作は当時の教皇と皇帝の対立という史実から清貧論争、神学論争、異端論争様々な書物への言及と参照等々の事柄を修道院内での殺人事件というオブラートに包んである非常に難解なものなので、そのままの映画化は文字通り不可能。
しかし、原作つきの映画には珍しく、映画を見れば小説が理解しやすくなり、小説を読めば映画の細かいところが解るという、双方にとってプラスの面が非常に大きいという点がある。
ダ・ヴィンチ・コードの登場によって、本作とコードを比較するコメントも多くなってきたので、興味を持っている方もいるかもしれない。
しかし、ここで一つアドバイス
ダ・ヴィンチ・コードの感覚で原作を読もうとすると、挫折するぞ